★「情報には対価を払おう」が通じない! 私がおかしいのだろうか??

情報には対価を払おう
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以前、ブログに「情報には対価を払いましょう」と書いた。
まったく受けなかった。残念ながら。

『当たり前のことを言っているのに・・・・』ちょっぴり空しくなった。

 

ブログのネタにしたのはビジネスマッチングでの10分プレゼンだった。
電本(電子書籍)をプロモートする目的で私も参加した。
その短いプレゼンの「前ふり」としてこの話をした。
考えてみれば、その時もお客さんの反応はよくなかったのだ。
情報」という資源、ふつうの人には縁遠い話に聞こえるのだろう。

 

有料セミナーでプレゼン

ある有料のセミナーで講師をしたときに冒頭、ひんなプレゼンテーションをした

 

 

 

なぜこんな前ふりをしたのかというと、「電本館」を立ち上げたばかりで
「電本を買ってください」という下心があったからだった。
<本なんか、安いものじゃないか>という気分が私の中にはある。
その気分、自分が出版社を経営しているからではないと思う。

ほんとうに安いと思うのだ、その内包している価値に比べて。

 

本棚に、私という人間の意識を決定づけた本が何冊かある。
アンドレ・マルローの『王道』
アルベール・カミュの『異邦人』
サン・テグジュ・ペリの『夜間飛行』
ドストエフスキーの『罪と罰』などなど。

 

文庫本であったり、「世界文学全集」内の一篇だったり。
金額にして数百円からせいぜい千円であろう。
これらの本が直接的に働きかけて今の生き方をさせたということではないが、
何をするにもバックボーンになって支えてくれているような気がする。

 

例に挙げたのは外国文学だが、日本のノンフィクションもむさぼり読んだ。
今も、本は読む。そして仕事柄、人の原稿もよく読むようになった。
玉石混淆というけれど、熱心に書かれた文章で「無意味」と思うものは一つもない。
自分も書き手の一人なので、筆者の思いが伝わってくるのかもしれない。
『一所懸命に生きてきた人生は記録するに足る』といつも感じている。

 

何冊も本を買い、棚の収容力がないので何回も処分し今は千冊足らずだろうか。
棚に残したほどの本でも、気憶力がお粗末なので読み返せば新刊同様に読める。

なんらか心にピンと来たから残したはずだが、ほとんど覚えていないわけだ。
それを「むだではないか」と言う人がいる。

 

でも、違うんだな。
どこかで必ず私の血肉になっている。
40年も前の本が、ある日引っ張り出して読めばビリビリがよみがえる!

 

実用書の類も部屋の片隅で山積みになっている。
文芸書やノンフィクションに比べ品格はない。薄っぺらなところもある。
それでも必ず”発見”がある。筆者の新着想であろう、熱がこもる。
本人が言うほど役に立ちそうでなくても、興奮が伝わってくる。
結局、ヒントは1、2行かもしれない。でも、それで十分だ。
「全篇これ開眼、あますところなく納得」の本が千円、2千円では安すぎる。

 

情報に対価を払う」というのは、おカネを払いなさいというのではない。
熱心に読むのも時間という対価だし、人にすすめるのも何らかの対価になる。
以上は本に絞って「対価」のことを書いたのだけれど、
インターネット時代、便利で正確で、そのくせタダのサービスがあふれている。
まことに良い時代で、検索や乗換案内など感謝してもしきれないくらいだ。

 

こういうサービスに対価を払っているかというと、「感謝」以外に払っていない。
しかし払いたい気持ちはいつでも持っているつもりだ。
情報は本に限らず、ネットに限らず、人に限らず、どこで遭遇するかわからない。

 

きっと、情報にはよりよく生きるためのさまざまな「宝の山」が埋まっている
その山を見つけられるかどうかは「姿勢ひとつ」だと思う。
「情報」を当たり前だと思わないこと。情報発信には大きな力がいる。
大きな力、エネルギー、努力、熱心さ・・・・その価値を認めること。
認めたら何らかの対価を支払うこと、支払う姿勢でいつも接すること。

 

うまく言えないが、情報には敬意を払って接したい。
“お返し”なし、ただ受け取るだけでは情報の価値を見落とすと思う。
だから私は情報をもたらす人やコトには必ず対価を払うつもりだ。
 

<ジャーナリスト石川秀樹>

 

★STAP細胞の「小保方報道」をどう読むか 情報には対価を払いましょう

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